AMINEX & EXCEL
有限会社 アミネックス
株式会社 エクセル
アミネックスのお話
昭和14年、創業者 峯尾幸吉 は、旧立川飛行機の旋盤工を辞し、立川市富士見町にて四尺旋盤1台で独立しましたが、東京大空襲で工場を焼失。終戦後に現所在地に移転し、戦火に焼けた機械を再生して、31年12月 (有)峰尾製作所 を創業しました。当時の散田町周辺には国鉄・西八王子駅と病院のほかに数件の民家だけで、畑と未舗装の道(畦道)が通っているだけでした。
そんな時代、自動車部品の旋盤加工を4名で営んでおりましたが、自社製品を作ろうと一念発起。電気洗濯機の開発を始め、一幸(現会長)が絞り金型を作るまでに至りましたが、残念ながら資金不足により開発を断念せざるをえず、部品加工に専念していきます。これからはフライス仕事が増えると見込み、他の機械を改造した手作りフライス盤で加工技術を習得しました。その後、様々な設備を導入し、熱交換機部品や治具製作、連続たまご焼き機・塩辛瓶詰め機などの自動機製造を受注したことが、現在の多品種少量生産の基礎となっています。
創業時に比べ機械は増えましたが、これまで以上の高精度加工の仕事を請けるには設備能力が十分でなかったため、45年に和井田製ジグボーラーを導入。更に50年には三多摩地区の中小企業初のNCフライスを導入し、大幅なレベルアップを図りました。このころは船舶や機械部品の仕上げ加工を二次下請けしており、やっと工場らしくなって来たところでしたが、そんな矢先に取引先が突如倒産。万事休すと思われましたが、これを切っ掛けに一次下請への道が開けていくのでした。
当時、機械部品の受注数は多くなかったのですが、お取引先の新製品が売れると予測し、基幹部品の品質実績と大幅なコスト改善を行い、そのまま業務を引き継がせて頂き苦境を乗り越える事ができたのです。その後、新製品が予測通りの増産となり、当社も積極的な設備投資を実施。55年に組立・完成品出荷部門として第2工場(現EXCEL)を建設。また、約20社の協力工場にご協力頂き、分業体制を整えて生産能力を大幅に向上しました。
60年、企業の信頼性を高める上で必要なのは「品質と安全」であるとし、当時中小ではあまり例の無い地下工場を完成。温度管理による加工精度の向上と切削液を水溶性切削液に切り替えての火災防止を実施。同時に大幅な設備更新を行い、より高精度・高品質な製品を安定供給出来る企業としての評価を高めました。
その後、設備の方向性は高精度・高速加工能力の強化に重きを置いて進め、安田工業製CNCジグボーラ、ワイヤー放電加工機、五軸MC、試作/単品向け汎用NCフライス、3D-CAD/CAMを順次導入していきました。これにより切削加工のミクロンオーダー、高硬度材の精密加工、3D形状加工、五軸加工に対応し、更なる技術進化を目指しています。また、サービス体制に優れたメーカーを選定し、故障等の休止が極めて少ない工場としました。近年の設備は、制御単位を従来の1/1千mmから1/1万~5/10万mmに引き上げ、高回転主軸・高速高精度輪郭加工・機体/切削液温度管理などを装備させたものとなっています。
さて、一度は挫けた自社製品の開発ですが、これまでに数機種を開発し、徐々に販売台数も増やしてきました。製品はエンドミル・ドリル・ボールエンドミルの切削工具研磨機をシリーズ化し、大手メーカー様にOEMするに至り、海外輸出されています。更に木造建築耐震補強金物を開発し、大手ホームセンター様へ販売することとなりました。当社にとっての自社製品とは、販売利益も当然大事ですが、研究・開発がもたらす加工技術の向上・蓄積が大きいと感じています。
IT対応は、メール・ウェブを活用し、取引先様との連絡・受注・図面受け渡し・情報収集を効率化し、企業情報を自社ホームページで公開する事によって数多くのご相談を頂いております。
社員教育にはスキルマップを活用し、5S(6S)の徹底、各メーカーのスクールや講習会、展示会等の見学会、社内勉強会を軸に進め、機械加工への精通と多能工化、新技術の習得、機械工具への知識を高めています。
西暦2000年に社名を「有限会社アミネックス」としました。Advance Mineo Excellentより作ったこの社名は、優秀さを更に進めて行くという意味と、町工場=汚い・暗い・臭いというイメージがあてはまらない工場であるというアピールも持たせています。
アミネックスは少数精鋭の技術者集団です。経営方針を「顧客満足」とし、QCD+S(サービス)によりお客様に期待される企業として、クリーンな「ものづくり都市型工場」を目指し、これからも地域に貢献できる企業となるよう、全社一丸となって技術改良の可能性を探求し、社員が夢を育み誇れる会社へと努力して参ります。